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『天を相手に生きる喜び!』大倉 信 師

2021年4月11日(日)


「いつも喜んでいなさい」(Ⅰテサロニケ5章16節)。 この言葉に内心、違和感を覚える方がいるのではないかと想像します。「そんなことはできない」という違和感です。そうです、私達は「いつも」という言葉に心が引っかかるのです。 ある日、車のオイル交換に行きました。「終わったら連絡するよ」と言われて帰宅したのですが、連絡はなく、取りに行けば、オイル交換は既に終わっており、代金を払って鍵さえもらえれば帰れるのに、目の前にいる私を前に店員は電話で長話をしていて、待てども暮らせども一向に電話が終わるようには思えません。私は思わず左手を彼の前に掲げ、右手で時計を指差したのです。明らかにその時に私の心から喜びは失われていました。 数年前、ホームレスの方が朝、教会を訪ねてきました。その方は常連の人で、いつも電話を貸してくれと言います。電話で話していると、その話し相手に大声で耳をふさぎたくなるような荒々しい言葉を怒鳴り散らしています。一日の始まりの朝だというのに、私の心から喜びが奪い去られていくのがよく分かりました・・・。 はたして「いつも喜びなさい」ということは私達に可能なのでしょうか。



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