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『神との友情を育む』大倉 信 師


2018年8月19日

イエス・キリストはかつて言われました。

「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である」(マタイ9章12節)。

キリストは「私は病人のために来た」と言われました。でも、私達は思いませんか、この言葉をそのまま受けとると、そうなのか、この世界には「病人」と「健常者」と二種類の人間がいるのかと。そして、大抵、私達は自分は健やかな者なのだと思うのです。

肉体的であれ、精神的であれ、病んでいる人と向き合う医師達が口を揃えていうことは、患者が自分は病んでいるのだということに気がつく、自分には治療が必要なのだということを自覚するところから治療は始まるということです。

「そんなことは当たり前だ」と私達は思いますが、けっこうこのことに気がつかない、自覚しない、いや、確かに病んでいても医師に会おうとしない人はたくさんいるのです。そして、当然、その間に病状はさらに悪くなってしまうのです。

もちろん、イエス様が言われている病人とは私達の肉体的な病を指しているのではありません。ここで主イエスが言わんとしていることは、たとえばこういうことです。「あいつには問題がある。こいつにも問題がある。あいつにもこいつにも、教えられなければならないことがある。指摘されて、直さなければならないものがあるのだ。でも、俺にはそのようなものはなく、自分の判断や、言動はきわめて全うなものだ」

確かに人は自己診断において自分は病人ではないと思うかもしれない。しかし、神の前に人は誰でも指摘されること、直さなければならないものがあるとイエス様はここで言っているのです。

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